2017年8月9日水曜日

日本人が英語を学ぶということ

先日、フェイスブックに友人がシェアしていた記事が興味深く、その記事を書かれたTomozoさんという方のプロフィールを見てさらに興味を持ち、私と同じブロガーでブログを書かれてることを知ってさっそくフォローさせていただきました。

また、その記事を拝読して思うことを、Tomozo さんご本人の許可をいただいて少し引用しつつ、書いてみます。

かなり脱線して元記事とは無関係な方向にさまよっていってしまったり、まとまりのない文章のうえやたら長文になってしまったけど、ここは自分の思うことを勝手に書くスペースだからと開き直って公開。



●最初に見た記事(MAG2ニュース掲載):
日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性

(本題からズレるけど、こういう↑記事が何ページにも分かれていて「次のページ」へとクリックし続けないといけないのがめんどくさい!長くてもいいから一気に読ませてほしいといつも思うのであります)

「危険性」とは、ちょっと強い言葉だなあと最初ちらっと思ったんですが、これは編集者の方(?)がつけた見出しだったようで、記事を書いたご本人がびっくりされてました。

こういう目を引くタイトルをつけて読者を呼び込もうということなんでしょうね。


●元記事(筆者 Tomozo さんのブログ):
バイリンガルのコスト

MAG2のほうは4ページに分かれててめんどくさいので(苦笑)Tomozo さんご本人のブログのほうから引用(同じ文章なんでしょうけども):

「言語は文化であり、思考プロセスそのものの一部であり、その人の内面の大きな部分を構成する要素でもある」

この一文に目からウロコが落ちました。

そこから始まって、いろいろ考えさせられ、また勉強になる文章が続きます。ワーキングランゲージの話もとてもおもしろい。

以下、最も興味深い部分を引用(黒字、太字、下線は私):

ではA言語(母語)とB言語(完全に流暢に話せるが母語でない)の決定的な違いはなにか、というと、私が通訳の授業を受けたハワイ大学のスー先生は
「子ども時代の歌や童話などに通じているかどうか」
「ジョークがわかるかどうか」

を例として挙げていた。

つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。

文化はとてつもなく入り組んだ、とてつもなく膨大な情報だ。
言語の機微はその文化の一部。ある文化の中に生きる人が共有する価値観、なにがタブーなのか、なにがイケてるのか、といった皮膚感覚のような非言語情報まで把握していないと、冗談はわからないことが多い。

確かに、たとえ英語の文法を勉強し、語彙を増やして「英語ができる」ようになったとしても、背景にある文化や育った環境が日本のものだけであったなら、外国で育った英語ネイティブが話すこと書くことを完全に理解できるわけはないよなあと。

その最たるものが「宗教の違い」かなあと思います。

日本は「なんでもアリ」な国。

八百万の国ですから、トイレの神様がいたり、なんでも神様になりうる国。

基本的に仏教神道の背景(「仏教神道」ではない)を持って育つ人が多いと思いますが、お寺の中に鳥居があったりするし、仏教と神道の境界線がブレブレなんですよね。

なんでもアリだから。

年末年始の1週間のうちにクリスマス(キリスト教)・除夜の鐘(仏教)・初もうで(神道)、と、3種の「宗教行事」でお祝い(?)する、というところにこの日本人の信仰観が表れてると思います。

そう言う私自身、子どものころは当たり前のようにクリスマス会をして「ゆく年来る年」で除夜の鐘を聞いて神社で甘酒をいただいてました。

まあそういったことが「宗教行事」だという意識さえないんですよね。宗教というより、もとは宗教行事だったものがただの慣習となった気もします。

とにかく、一般的な(特に決まった信仰/宗教を持たない)日本人には「どちらかひとつにしなければいけない」義務感なんてしょっぱなからなくて、むしろ「なんで分けなきゃいけないの?」的な感覚だと思います。

ところがこんな習慣は、その国の文化にキリスト教の影響が根強く残っている国ではありえないでしょう(英語圏だけの話ではないですが、英語の話をしているのでここでは英語圏に限ります)。

キリスト教では神は唯一の存在であり、ほかのものを神としてはいけないと教えますが、これも日本人の理解できないタブーのひとつなんですよね、きっと。

とにかく、根っこがまるっきり違う宗教観を土台とする国で育ってしまったら、美術や文学、音楽、映画、日常使われることわざ、生活習慣など、ありとあらゆるものに入り込んでいる「キリスト教圏」の考え方やボキャブラリー、ましてやジョークを理解するのは並大抵のことではないと思われます。

そのせいなのかなあ、日本の映画館でアメリカのコメディ映画を観に行っても笑うところがアメリカ人と違い、たいていシーンとしてるのは。

日本人の気質のせい(シャイ?)で、おもしろいと思っても公共の場で大声で笑わないのもあるかもしれないけど、アメリカのジョークが日本人にとっては「わかりづらい」せいも大きいんだと思います。

そんなわけで、やはり二言語を完全にマスターするにはそうとうの情報が頭に入ってないといけないんだ、という、Tomozo さんの言葉にうなずくばかりなのでした。

***

ここで話をがらっと変えて、記事の中で「第二言語の獲得に臨界期があるのは都市伝説」と言われている部分について。

その臨界期なるもの、私は聞いたことがないんだけど、もしかして発音のことかなあと思ったり。それなら私も読んだことがあります。

13歳だったか、そのあたりの年齢までにネイティブの発音を聞いた子どもはネイティブの発音ができるようになるけど、それ以降になると難しい。そんな感じの話でした。

確か、その文章には「言語習得に才能も年齢もほとんど関係ない。だれでもできる」というような主張もありました。

私の母は60代後半で英会話を習い始め、簡単なあいさつができるようになりましたから、あきらめず、やる気さえ持続すればなんとかなるもんですね。ネイティブのように話せなくても、ある程度の習得はできます。

***

またまた話は飛んで、バイリンガル教育(元記事の主題)について。

私の周りには、海外において、子どもに現地の言語に合わせて日本語を習得させるのをあきらめてしまう親が多いと感じます。

現地の学校での勉強やスポーツ、習い事、友だち付き合いで忙しい子どもに、使う機会のほとんどない日本語にプライオリティを置けとは言いにくくなるんでしょうしね。

日本では、子どもに英語を習得させようとする親はたくさんいますが、日本の英語教育の現場にいた経験上、親が「他人まかせ、学校まかせ」にしているとうまくいかないことが多かったです。

これは大人の英語習得にも言えることですが、やっぱり本人が向上心とやる気を持ってがんばらないと難しいんでしょうね。


なんか果てしなく長くなってしまった…
このへんで終わります。
あとで見直して修正するかも。


Posted on Wednesday, August 9, 2017

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2 件のコメント:

  1. Choco Coさん、お読みいただいてありがとうございます。
    そうそう、あの「次のページ」を何度もクリックしなくちゃいけないの面倒ですよね。ページビューをかせぐためなのでしょうけど、わたしもイライラすること多いです。

    まさに宗教観て、文化のいちばん深いところだと思います。
    アメリカも西海岸の若い人では無宗教の人の方が多いくらいですが、それでも、身についた文化の中にキリスト教の歴史と考え方が染み込んでいるのだと思います。
    その辺はわたしも一番興味があるところなんです。
    日本の、神仏が宗教ぬきに生活に密着しているところは本当に面白いと思うし、世界でもめずらしいと思います。ただ、だからといって日本の人が一神教のエクスペリエンスを知らないままに単純だと決めつけてしまうのも残念だと思うのです。大きすぎてなかなか取り組めないですが、機会があったら書いて考えてみたいなあと思っているテーマです。

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    1. Tomozoさん、さっそく読んで頂き、コメントまで頂いてありがとうございます!
      Tomozoさんもあの「次へ」イライラしますか。ですよね〜!

      やっぱり宗教観ってその文化を理解するのに必須ですよね。
      そうそう、本人が信仰心を持っているかどうかは関係なく、文化にしみ込んでいると思います。それは日本も同じく。

      私はテレビや映画の感想も別のブログに書いているんですが、海外のドラマや映画を観ていてたまに「あーっ、ここ日本人にはわかってもらえないかも、説明したい!」とジリジリします。

      おっしゃるとおり、テーマがテーマなので私もなかなか取りかかれないでいるのですが…いつかぜひ、と思ってはいます。

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